2014年6月22日日曜日
今ホンダに対して思う事
この本を読んで当時のホンダの良く分からなかった”会社としての傾向”が腑に落ちた。
そしてこれからのホンダが目指そうとしている所が、なんとなく見えた。
正直な所、僕はホンダが好きだった当時でもF1には然程興味が無かった。
リーマンショックで軒並み日本メーカーがあらゆるレースから手を引き始めた時でも
エコカー減税なんていう国税投下を受けている以上、またいくらホンダとは言え株主の
手前上当時の状況でレースに興じる事はできぬと、それはそれで”正当”な理由として
成り立つのだろうと思っていた。
ホンダよりも余程規模の小さなメーカーが、それでも文化として守らねばならぬと
必死に参戦していた事を知っていてもだ。
そんな当時の事を考えながら読んだこの本にこんな一文があった。
この戦争(F1参戦)の終結は二人のカリスマ亡き後、ホンダ社内において長い間せめぎあっていた、川本に代表される「本田宗一郎の流れを汲む者(技術屋)」と、雨宮のような「藤沢武夫の流れを汲む者(経営屋)」との終戦を意味しているのかもしれない。結果的には藤沢チルドレンが勝利を収め、これから先、ホンダは「レースがDNA」みたいなヤクザなことを公言しなくて済む「普通の会社」になるだろう。そう、ホンダという企業の「青春」は終わったのだ。
僕はこの一文を読んで大笑いしてしまった。
結局、どんなに思想や哲学を説いても、イノベーションを起こす仕組みを整備しても
率いる者が居なくなれば、そしてその”代り”が居なければ結局何も無かった事に
なるのだと。
ホンダは2015年にF1に復帰するそうだ。
”今度こそは”とか”もう復帰しないで”とか”そんな資格は無い”とか、僕にはそんな感情は
元から無い。
勝とうが負けようが、どちらにせよそれは結局”すぽると”ニュースのひとつに過ぎないのだ。
重要なのは、今、企業体としてのホンダを仕切っているのが”経営屋”だということだ。
かつてのホンダには、中心に本田宗一郎を据えつつも脇には必ず藤沢武夫がいた。
それが”両輪”として機能する企業だった。
だが今ホンダは、”文系の経営屋”のみで運営されている。
そして経営のプロが考えている事は基本的には一つ。
”どうやって儲けるか”だ。
そうなると、今のホンダぐらいの大企業であれば程度の差こそあれ結局は規模の拡大を追う。
どんな技術にも代替技術が存在する今、優先されるのは”原価”と”利益率”だ。
そして規模の拡大を追うのであれば、”尖った技術”は要らない。
スタンダードなものを広く浅く売る方が余程売れるし効率が良いからだ。
寧ろ技術への”こだわり”は弊害としてしか映らないだろう。
対して技術屋は夢や希望もしくは”世界を変える”ような大きな目標を欲する。
それに対する経営屋の殺し文句は大体”夢で飯は食えない”だ。
もしかしたら、ホンダはトヨタになりたがっているのかもしれない。
トヨタ程の規模で売り上げが上げられしかも莫大な現金資産を持ち、かつ無借金経営なら
経営屋なら誰でも理想とするだろう。
だが、ホンダとトヨタではその出自や理想、哲学がまるで違う。
トヨタは人々に普く自動車を普及させる事こそが出発点であり、原点だ。
その為のカンバン方式であり、カイゼンだ。
対してホンダは『世のため人のため、自分達が何かできることはないか』
という”志”が原点だ。
言い換えれば夢をいかに高く持つか、いかにその実現に向けて情熱を燃やし続けるかということ。
トヨタは”広く”、ホンダは”深く”と言える。
だが、今のホンダの経営規模では”深く”は出来ず、結果的に”広く”規模を追わなければ
経営を維持できないのかもしれない。
それ故の派閥争いの結果だったのだろう。
そしてホンダは”夢を語れない普通の会社”になってゆくのだろう。
かつて世界を席巻した日本の電機業界は今や見る影も無く、リストラや事業の再編で
なんとか生き残りを懸けて日々奮闘している。
技術に拘りすぎて商売をないがしろにしたから失敗したと、彼等は言う。
だが、僕は、”違う”と思う。
日本の家電業界が潰れかけているのは、”技術者のエゴ”と”自社の都合の押しつけ”の結果だ。
機能過多、サイクロンを初めとした露骨なパクリ、そしてカッコ悪いデザイン。
”売れりゃなんでも良い”という空気がそこにはあった。
技術に拘ったから失敗したんじゃない。
技術にだけ拘ったから失敗したんだ。
エゴと都合を顧客に押し売りしていた為だ。
それを正当化したモノ造りをしていたからだ。
今のホンダを見ていると何となくこんな事を連想する。
そして、この本を見て”そう思うトコロの根拠”がどこにあるのか理解できた。
正直な所、”エゴ”と”拘り”の境界線は恐ろしく不明瞭だ。
僕自身、仕事上”拘る”トコロはあっても、それが”エゴではない”と言い切れない。
それが”棚上げ”だと分かった上でもそれでも僕は、かつてホンダに熱狂していた
人間の殆どは、技術に拘るホンダが見たいんだ。
いや、見ていたかったんだ。
この本を見て僕は自分の中で区切りをつけた。
もう僕は特別な目でホンダを見る事は無い。
ワクワクドキドキする事も無いと思う。
良いとか悪いとかの話じゃない。
ただ、”そういう事”なんだ。
でも、かつてホンダに熱狂した事は大事にしまっておこうと思う。
それは僕にとっても大事な”青春時代”なのだから。
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